蔡国强さん近况
(日本経済新聞2015年7月15日夕刊記事)
世界的アーチストとして北京オリンピックのオープニングセレモニーをコーディネートするなどご活躍の蔡国強さん、スタジオをニューヨークに構えておられますが、日本でも多く活動されています。今年3月の京都市美術館のグループ展、3月8日大阪IMP松下ホールにて企業メセナの講演に続いて、現在横浜市美術館で10月18日まで個展「帰去来」を開催中です。
現代中国芸術センターは1980年代に東京画廊のお世話により蔡国強さんの個展を企画しています。
その時の案内状と、1988年12月4日の大阪新聞に取り上げられた記事が少し黄ばんでしまっています。懐かしいです。場所は以前現代中国芸術センターがあった場所西天満3-9-12です。蔡国強さんが来日してまもなく、絵筆の替わりに新しい表現手段としての花火の火薬を用いて試行錯誤していたころです。そのころの蔡国強さんの制作発表活動には私も大変尊敬する鷹見明彦さんという現代美術評論家が深く関わっていました。鷹見さんは若かった蔡国強さんをとても高く評価していました。残念なことに鷹見さんは2011年春に膵臓癌で55歳の若さで亡くなりましたが、改めて彼の慧眼が偲ばれます。
美術の評価について「時の試練」
美術品の評価というのはどういうことだろうかと考えていました。評価が上がるとか、下がるとか、、、。Sotheby’s Japanの石坂社長がSotheby’s「White Glove Newsletter Vol.24」にこう書かれていました。一部引用します。『時の試練 政治、経済においてもそうだが、美術の世界でもその作品が後世に残る人類の宝となるか、一時の流行で終わるかの分かれ目は「stand the test of time」、つまり時の試練に耐えられるかどうかによる。年齢を重ねるにつれ、この言葉の持つ重みをひしひしと感じる。美術品に最初に訪れる「時の試練」は、買った美術品を自宅に持ち帰った1週間後、1ヶ月後だろうか。そういう意味では「Can you live with it?」という表現はとても言い得て妙だ。眺めれば眺めるほど、作品の微妙な色彩表現」、重層な構成の複雑さに気づき、味わいが深まる作品であれば合格だ。逆に、最初あれほど感動していた、わかりやすい美しさが、実は装飾的で薄っぺらに感じられるのであれば落第だ。料理も同じだ。わかりやすいけど飽きる料理もあれば、食べれば食べるほど手間暇をかけた出汁の旨味に気づく料理もある。
次に訪れる「時の試練」は、その作家の世代が第一線から退場するときだ。生前有力な画商、コレクターの恵まれ、必要以上に評価が高かった作家もいれば、ゴッホのように生前コレクターに縁のなかった作家もいる。それから、時代の先を走っている作風もあれば、単にその時代のファッションを表面的に描いて共鳴を得た作家もいる。ふくよかな女性を描いた作品が持て囃された時代もあれば、ピカソの「貧しき食事」のように針金状の細い人物像が共感を得ていた時代もある。またロココ調が全盛の時代もあれば、ミニマリズムが幅を利かせていた時代もある。西洋文明が栄華を極め、東洋文明が置き去りにされた時代もある。戦火、天災も忘れてはいけない。そういうすべての価値観の変遷、試練を乗り越えて残った作品だけが古典となる。』引用長くなりました。
須田剋太「無題」 36×27,5㎝
津高和一油絵「Untitled」1957年作 8号
私は日本の5~60年代抽象表現が以前から個人的に好きでした。この3点の作品は私が気に入って求めたものですが、購入した時期も、購入した場所もばらばらです。でもこうして画像を並べて眺めてみるとなんとなく自分の好みが分かるような気がします。これらの作品いつか時の試練に耐えて評価される時がくるのでしょうか?
日本の戦後現代美術作家への再評価
先日国立国際美術館で日本の6~70年代を代表する作家高松次郎の回顧展を観たからか、80年代の日本の現代美術シーンがいろいろと思い出されます。私が中国美術の仕事を始めたのは1985年ですから、もともと現代美術には関心があり80年代の大阪の状況ははリアルに体験しているのです。大阪の画廊や作家もとても元気がありましたね。今は火が消えたようにひっそりしていますが、、、。
そんな中、最近世界のマーケットでは吉原治良の起こした大阪の具体美術運動などの日本の戦後現代美術の再評価が著しく、なかでも白髪一雄、田中敦子などのアーチストは「億越えの作家」として国際市場を牽引しています。
サザビーズパリ6月3日のイブニングセール「Art Contemporain」の会場風景(画像:サザビーズ公式facebookにより)
これは2014年6月パリで行われたササビーのセールで5億4950万円のオークション記録を達成した白髪先生の作品です(Sotheby’s 「White Glove Newsletter」Vol.24より)。この作品は大阪万博のために制作されたみたいですね。その時代の気分ですね、素敵です。気のせいでしょうか、大阪ってコスモポリタンな気分がありますよね。今はひっそりしてしまったのに再評価だなんて、皮肉ですが過ぎ去ってみないと評価できないのですね。中国では現在のところ奈良美智や村上隆、草間弥生の御三家が人気がありますね。
2015年4月上海
延安飯店の内側の庭園です。革命の聖地延安という名前を冠する延安中路沿いに佇み、軍関係のホテルと言われる厳めしいイメージのホテルですが、内側にはこんなに美しい庭園があります。1990年前後出張時にはよく泊まりました。懐かしいです。
これは長楽路と茂名南路の交差点です。この近くには錦江飯店や花園飯店があり、とても馴染みのある場所です。
これは錦江飯店南楼。冒険家の楽園、魔都上海と称せられていた頃の名残が感じられますね。私は1982年9月から現北京外国語大学に2年間留学していたのですが、1983年春の春休みを利用して上海へ旅行しました。その時の一番の印象は上海はなんて都会で洗練されているのだろうかということでした。中国で都会といえるのは上海だけ、上海に比べれば当時の北京は巨大な田舎だと思いました。
上海で一番ロマンチックな通りと言われる衡山路です。素敵です。仕事とは関係のない写真ばかりですがもちろん仕事ですよ。
北京大学図書館”大倉文庫”善本展を開催する(後半翻訳)
2012年北京大学図書館は校内外37名の専門家の研究者の建議のもと”大倉文庫”を購入することに決定しました。2012年6月より、朱強館長は関係業務スタッフに力の限りを尽くして担当するよう指示し、全力で買い戻し事業を押し進めました。北京大学党委書記朱善璐等大学の指導者の全面的な支援を得て、買い戻し事業が最終的には中央の関係部署の指導者の関心を集め、教育部の同意により財政部から書籍購入代金の50%を支出することとなり、書籍の購入費用の問題を解決したのでした。そして一年半後の2013年12月12日”大倉蔵書”は北京大学図書館に到着したのです。
これはこの百年余りの間、中国が初めて海外に残留する大量の我々自国の典籍の買い戻したものでした。
この度は”大倉蔵書”全931種28143冊を買い戻しました。その内宋刻逓修本は四部あり、歴代逓修本の源流の研究に於いて規範となるべき高い文物価値と文献価値を有するものであります。九部の元刻本も等しく書品が極めて佳い精刻精印本です。また155部の明刻本中、明嘉靖、隆慶及びその前後の刻本が絶対的多数を占めています。明活字本15部中金属活字本が14部に達し、また伝来本にはまれな大変希少な唐人文集が11部も含まれており、一度に大量の明活字本を購入することができました。これは今まで絶対にありえなかった事です。この他清順治から乾隆年間の刻本153部、清順治から乾隆年間の活字本(武英殿聚珍本)39部、清初銅活字本一部、鈔稿本111部、その内鮑鈔鮑校等名家の批校題跋本が多くを占めています。善本の数がこのように多く、”大倉文庫”に含まれる典籍が珍貴であると説明するだけでなく、北京大学図書館が購入したこれら典籍はその価格を超えた価値を持っていると言えるのであります。
今日の”大倉蔵書”は掲示整理を経て、”大倉文庫”という単独形式で北京大学図書館の善本収蔵庫にまとまって保存されています。”大倉文庫”は将来北京大学所蔵の各種文献と共に、教学と科学的研究の中で十分に学術の公器としての力を発揮することでしょう。北京大学図書館はこれからも積極的に整理開発作業を行い、その化身千万を以て、真に資源を共に享受し、嘉恵学林と為すでしょう。
北京大学図書館”大倉文庫”善本展を開催する(前半翻訳)
4月17日のブログでは唐突に北京大学のホームページを貼付けてしまい、長文の翻訳には気合いが必要なため、そのまま今日まで放置してしまい申し訳ございませんでした。以下私の訳文で読みにくい箇所多々あるとは存じますがどうぞご了承下さいませ。
5月3日午前10時『北京大学図書館収蔵”大倉文庫”善本展』が北京大学図書館展示会場で開催されました。日本側は大倉文化財団法人大倉集古館館長大倉義彦先生、大倉集古館事務局長渋谷文敏先生、現代中国藝術センター代表取締役當銘藤子女史が出席しました。中国側からは国家古籍整理出版計画グループメンバー、国家文物鑑定委員会委員傅熹年先生、全国古籍保護工作専門家委員会主任、国家文物鑑定委員会委員、国家図書館研究館員李致忠先生、全国古籍保護工作専門家委員会委員、中国科学院国家科学図書館研究館員羅琳先生、光明日報副総編集沈衛星先生、中華書局副総編集顧青先生、国家図書館副館長沈力先生、首都図書館館長倪暁健先生等が来賓として出席されました。北京大学常務副校長劉偉、中央文史館館長、北京大学教授袁行霈、全国高等院校古籍整理研究工作委員会主任、北京大学中文系教授安平秋、及び北京大学教授厳紹烫,白化文、程郁綴等北京大学図書館が”大倉蔵書”を購入することを支持協力した校内の指導者と専門家の学者達が来場しました。
開幕式は北京大学図書館館長朱強が司会を執り行い、劉偉、大倉義彦、袁行霈が祝辞を述べました。その後劉偉、袁行霈と渋谷文敏先生が共同で『北京大学図書館収蔵”大倉文庫”善本展』のテープカットを行いました。開幕式の終了後、百名余りの専門家の学者の方々、図書館界の一行とマスコミの記者が展覧会を参観しました。
20世紀初頭、日本を訪問した中国の蔵書家董康は資金の調達に迫られたため、日本の友人である大倉文化財団創始者大倉喜八郎先生に収蔵していた典籍の一部分を売却しました。月日は流れこれらの典籍は大倉文化財団大倉集古館で百年近く珍蔵されて来ました。この間、大倉文化財団はこれらの典籍を中核として絶え間なく収集を続け、次第に規模を成し、世に”大倉蔵書”と称せられるようになりました。これにより大倉集古館は中国典籍を多数収蔵する機関となったのです。
2005年大倉文化財団は民間に散逸した日本の文物を収集するため、18億円という価格で”大倉文庫”を譲渡することを決定しました。その条件はオークションに出品して分散させない事、中国国有の収蔵機関で永久にまとめて収蔵するということでした。2005年から2012年の間、国内の多くの収蔵機関、企業から個人に至まで次々と大倉文化財団集古館と収蔵に関わる商談を重ねて来ましたが、或は資金の問題、或は大倉の保管収蔵の要件を満足させる事が出来なかったため、いずれも収蔵の願いを実現出来ませんでした。
明日に続く、、、。
「海外所見善本碑帖録」
去年の秋、馬成名先生より著作の進呈を受けました。
馬成名先生は中国書画碑帖の世界的な鑑定家です。
1987年よりクリスティーオークションに勤務され、
2009年に退職されるまで中国書画碑帖部門にて要職についておられました。
ニューヨークや香港でのオークションの折々には温かく迎えて下さり、
その豊富な知識を披露していただきました。
最近はお目にかかる事も少なくなり、アメリカの山の中で執筆活動に勤しんで
おられるとのお話でしたが、この本を書いておられたのですね。
P77には2001年2月私が馬成名先生を京都の大谷大学の図書館にご案内して
《信行禅師碑》の拓本を見に行った事が書かれています。
忘れないでくださってありがとうございます。
「海外所見善本碑帖録」には馬成名先生が世界中で見聞された碑版法帖の
名品が書き綴られています。学問とはこういう地道な研究なのだとつくづく
思います。
内表紙には毛筆で為書きが認められています。お人柄の表れた美しい書ですね。
ロバート・ハットフィールド・エルズワースの思い出 ①
去る2014年12月11日クリスティーズジャパンにて行われたロバート・ハット
フィールド・エルズワースコレクションの日本プレビューのご案内をいただきました。
ロバート・ハットフィールド・エルズワース氏(1929年〜2014年)は著名な東洋美術の
コレクターでありディーラーでした。氏の2000余点のコレクションのオークションが
今年3月にニューヨーククリスティーズで行われる予定でありそれに先立ったプレビュ
ーが東京で開催されたのです。
ロバート・ハットフィールド・エルズワース氏は私にとって強く思い出に残る人物の
一人です。氏に関する最初の記憶は1992年12月のことです。
1992年12月私はニューヨーククリスティーズで一回目の李氏(啓巌)羣玉斎旧蔵碑版法帖
のオークションに参加するため初めてニューヨークを訪れました。アメリカに行くのは
初めてでしたが、当時ニューヨーククリスティーズで東洋美術の主席キューレターを
勤めていた黄君実氏と馬成名氏の手厚いサポートをいただくことができました。
おかげで中国美術特に私が専門とする古代書画は当時ニューヨークが売買の中心地
でしたが、そこに集う王季遷氏や王芳于氏を始めとする多くのコレクターや
ディーラーの方々と知り合うことができました。
1992年12月のニューヨーククリスティーズのオークションに出品された李啓巌旧蔵の
碑版法帖のうち南宋拓石鼓文、明拓天發神識碑、宋拓黄庭経、宋拓懐素千字文
(群玉堂帖)等の素晴しい名品がロバート・ハットフィールド・エルズワース氏に
よって落札されたのです。
そしてこれらの落札品は1996年8月に中国文物出版社から「エルズワース善本碑帖
コレクション選」として出版、ほぼ同時期に作品は北京故宮博物院で展観され、
その後上海博物館への売却に繋がっていくのです。